秀吉・一夜城
きょうは、お城・散歩です!
コロナ禍でも・・・
NO密・散歩 に向かいました。
予想通り、人影はまばらでしたよ (笑)
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戦国時代末期(1590年)に
当時の覇者 「 豊臣秀吉 」の
全国制覇の仕上げとして向かった先が・・・
関東の一大勢力 「 北条氏 」の本拠地
数々の歴史ドラマでの
名シーンが思い出されると思います。
そして、豊臣秀吉が
全国から15万人もの武将を率いて
小田原城攻めの拠点としたのが・・・
石垣山・一夜城( 小田原市HP より )
石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
当時、主流になりつつあった
石垣による城造り の痕跡を
現在にとどめている貴重な戦国遺跡になります!
( それまでの城は、土塁や掘割などが主流でした )
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南曲輪の石垣
このに石垣城に来て
まず見ていただきたいのが
駐車場から小高い城に向かって
左手にある崩れかけた
南曲輪の 石垣 です!
手前側・南東のコーナーに当たる隅石部分は
長年のダメージを受けて崩れかかっていますが・・・
南側の法面の石垣は、保存状態も良く
当時(430年前)の状態をよく残しています。
430年もの間、
幾多の大地震にも耐え抜いて
現在にその姿をとどめています。
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二の丸曲輪
さて、山頂へ向かって少し登ると
左手に二の丸曲輪が現れます。
ここの石垣もよく保存されていますが
狭い道なので崩れないように補修してある感じですかね。
広い 二の丸跡 にある広場に到着すると
左手に 本丸跡 へ通じる道があります。
本丸跡の石垣は、下の部分を残して
崩れている部分が多く見うけられます。
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本丸跡
本丸跡には、
小さな祠が祭られています。
また、相模湾と小田原市内を
見渡せる 展望デッキ もあります。
小田原の方角をよく見ると・・・
緑の木々に囲まれた 城址公園 と
小田原城の 天守閣 も見ることができます。
(周りのビルの囲まれて、見つけにくいけど・・・💦)
本丸広場の南西側には、
天守跡 の盛り上がり? もあります。
そして、大木の木々が茂り
桜の木もあるようで、桜の実(サクランボ?)も・・・
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二の丸跡 にもどります。
ココは、広い芝生の広場になっていて
サツキやアジサイの花も咲いていました。。。
また、芝生のあちらこちらに
小さな薄紫の花が咲いていました。
芝生の花かな? と思い調べてみると・・・
庭石菖(ニワゼキショウ)の花でした。
この花、常緑性の多年草で1日花で
こぼれ種でも良く増える丈夫な草のため
厄介な雑草としても扱われるそうです・・・💦
普通に公園で見かける芝は、
野芝(ノシバ)や 高麗芝(コウライシバ)
という種類が多いそうです。
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さて、二の丸跡 から下ると
石垣で囲まれた 井戸曲輪 へ
通じる道があり、ココも見どころですよ。
お城での水の確保は
最重要課題の一つですからね!
立派な石垣に囲まれたこの井戸
toto も、下まで下ってみたのですが
残念ながら井戸の底にある水は見えませんでした。。。
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・・・ 答え合わせ ・・・
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小田原市HP・観光パンフレット
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/115282/1-20190115140840.pdf
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