「 旧・玉川 」 トコトコ part-3
地形は、歴史を語ってくれます。
シリーズ 「 旧・玉川をトコトコ 」 👟 👟 👟
以前の記事は、コチラから
1ヵ月ぶりになりますが、前回の続きです。
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小野緑地にある 小町神社 を下って、
下流方向にある痕跡をたどります。
この道がちょうど川が流れていたあたり
微妙に高台に沿って道が湾曲しているのが分かります。
同じところを田んぼ(低地)側から見たところになります。
高台の下にある民家が少し高くなっていますね。
あの辺りから、道路までが
川とその岸で高くなっていたと思われます。
そのまま進み、
旧・玉川沿いの道から
少し高台に、神社がありました。
その名も 「 堰(せき)神社 」
いかにも、川に関するお名前ですね。
なかなか、立派な お社です!
社殿の飾り柱が、
凄いく立派な 彫り物です!!!
透かし彫りも施されていますし
手が込んでますねぇ~!
神社の謂れは、
「 神奈川県神社誌による長谷堰神社の由緒 」
天正四年(一五七六)の夏降雨更になく、水稲は枯渇してしまった。
時の領主氏直公の家人武井四郎左エ門利忠は村民の愁眉を聞かせてやりたいと神に祈り村民を指揮して長谷川を堰上げ、あらゆる力を尽したが其の効がなく、
その時六月二四日辰の上刻紅梅月毛の馬に身にからくれないの装束を着た一人の山伏が忽然として人々の間に現われて利忠に云った、
吾は筑波の山に住む桂坊と申す者今大山に登山なさんとする者である。
明二十五日辰の上刻大山より此処に帰って来るからと約束し大山に向って去った。
翌日約束通り来て利忠に告げた。
吾はこの堰杭になろう、そうすれば土俵で築いても水破することは決して無い。
その代り此の川に杭と名のついて居るものはたとえ木枝でも後世決して打ってはならぬ。
そして我霊魂は汝の家辺に遷して祭ってくれよ。
然らば永く守護神となるであろう、と長谷川の清き水底に入って行方不明になってしまったと云う。
それが為に新たに神社を建立し堰大明神と勧請し、山を桂敬山という。
前の祭日は六月二十五日であった。
(神奈川県神社誌より)
ふむふむ、
この辺りは、長谷地区というので、
ここでいう長谷川とは、旧・玉川のことですね。
で、人柱になるからと言って「桂坊」さん
川に入り、行方不明・・・
たぶん死んじゃっと、神社を建て祀ったと。
イリュージョン! だったらビックリ (゚д゚)!
バチ当たりな toto で、すんません m(_ _)m
さて、その付近から
現・玉川 方面にある新道にあるバス停
「 籠堰橋(かごせきばし) 」
そして、
現・玉川 に架かる橋 「 かごせきはし 」
ということは、
旧・玉川 にも、この辺りで
「 籠堰橋 」 が架かっていたのでしょうね。
現・玉川 との交差部、/p>
現・玉川の上流に向かって写しています。
左手のエンジ色の排水溝があり、
左手奥に取水口が見えます。
川筋が逆に少しズレていますね。
そこから、旧・玉川は
川筋の反対側の高台沿いに流れを変えます。
一部は、農業用水の役目をはたしていますね。
しかし、その先は
フタに閉ざされて
暗渠(あんきょ)になっています・・・。
マンホールには、
「 厚木市 」 と 「 雨水 」 と書かれています。
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今回も、
道すがらの草花を・・・
茎から粘液が出ていて
小さな虫が、捕まってしまうらしい 💦
桜の実は、苦い・スッパイで
食用にはならないらしい 💦
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次回は、
国道246号線 と 小田原-厚木道路 を
横切って、伊勢原市との境を進んでゆきます。
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